江戸時代以前
平将門
Taira no Masakado
太田道灌
Outa Doukan
江戸の草創期を支えた人々
大久保彦左衛門
Okubo Hikozaemon
伊達政宗
Date Masamune
徳川秀忠
Tokugawa Hidetada
江戸の文化人・教養人
小堀遠州
Kobori Enshu
狩野洞雲
Kano Touun
松尾芭蕉
Matsuo Basho
徳川綱吉
Tokugawa Tsunayoshi
前田玄長
Maeda Harunaga
室鳩巣
Muro Kyuso
大田南畝
Ota Nanpo
幕末・明治に活躍した人々
小栗忠順
Oguri Tadamasa
小松宮彰仁親王
Prince Komatsu Akihito
文明開化
河鍋暁斎
Kawanabe Kyosai
大司教ニコライ
Saint Nicholas
沢辺琢磨
Sawabe Takuma
北沢楽天
Kitazawa Rakuten
日本人初
重野安繹
Shigeno Yasutsugu
池田謙斎
Ikeda Kensai
白瀬矗
Shirase Nobu
政治家・実業家
平田東助
Hirata Tosuke
西園寺公望
Saionji Kinmochi
岩崎弥之助
Iwasaki Yanosuke
加藤高明
Kato Takaaki
薩摩治郎八
Satsuma Jirohachi
大正・昭和の文化人
西村伊作
Nishimura Isaku
服部広太郎
Hattori Hirotaro
二代目市川左團次
Ichikawa Sadanji II
近代医療の礎を築いた人々
佐々木東洋
Sasaki Toyo
井上達也
Inoue Tatsuya
浜田玄達
Hamada Gentatsu
瀬川昌耆
Segawa Masatoshi
平将門
Taira no Masakado
?-940
江戸っ子の守り神
平安時代前期の武将。下総国豊田(茨城県)出身。 父の死後、京で仕官している間に伯父の平国香に所領を乗っ取られ、武力闘争の末、勝利。地方の律令体制に不満を抱いていた将門は、そのまま国府を襲撃して関東八州を制圧し、関東一円に武勇をとどろかせ、自ら「新皇」を名乗って朝廷を震え上がらせた。その後、平貞盛・藤原秀郷らの征討軍に攻められ、戦死する。その首は平安京まで送られ、都大路にさらされたが、3日後に夜空に舞い上がり、故郷に向かって飛んでいったといわれる。 その首が落ちた場所の一つとされる武蔵国豊島郡柴崎村(現在の大手町)付近の住人が将門の祟りに苦しんでいたところ、東国に布教にきていた2世真教坊が立ち寄り、その地にあった大黒様を祀る祠(神田明神の前身)の隣りに将門の霊を祀った塚(=将門塚)を築き、この地の守護神とした。江戸時代になると、将門を祭神とした神田明神は城下町の整備に伴ない、初め駿河台へ、次いで元和2年(1616)に現在地へ移された。以来江戸っ子の護り神として広く信仰され、神田祭りは日枝神社の山王祭と並んで天下祭りと呼ばれた。しかし明治になると朝敵であったとの理由から、将門は神田明神の祭神から密かに外された。将門が祭神として復活したのは昭和59年(1984)のことである。
太田道灌
Outa Doukan
1432-1486
太田姫神社を創建した
室町時代の武将。鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の重臣。 扇谷上杉氏のために生涯を戦いに捧げ、扇谷上杉氏を一大勢力に育て上げるが、その名声を恐れた主人家正に暗殺された。道潅が江戸に築いた城が江戸城の前身で、和歌を好んだ道潅はこの城に多くの文人を招き、詩歌会を催した。 ある日、道潅の娘が天然痘に罹り、京都の一口(いもあらい)神社に病平癒の祈願をしたところ、たちまち回復したので、道潅は江戸城を築く際、この霊験あらたかな神を鬼門封じの神社として勧請した。神社は、もとは江戸城内にあったが、江戸城増築に伴ない場所を移され、昭和6年(1931)までは現在のJR御茶ノ水駅1番・2番線ホームの場所にあった。現在の社殿は関東大震災後、昭和4年に再建したものである。
大久保彦左衛門
Okubo Hikozaemon
1560-1639
ご存知天下のご意見番!
江戸初期の旗本。三河国上和田(愛知県岡崎市)出身。家康、秀忠、家光の三代に渡って仕えた。とくに家康からの信頼は篤く「幕府の大儀を決する時は必ず忠教(彦左衛門)をしてその快を採らしめよ」と遺言したといい、その後自ら天下のご意見番、我儘御免男と称して理不尽に屈せず忠勤に励み、初期の幕府を支えた。徳川家代々の歴史や合戦などを記した軍記『三河物語』の作者でもある。華美を嫌い、豪傑で義侠心に富んだ人物であったと言われ、後世、魚屋一心太助を手下に活躍した話や、大名以外の武士が駕籠に乗って登城することを禁じられると盥に乗って登城した、などという講談や歌舞伎が人気を博した。なお駿河台が上屋敷、港区白金台の八芳園が下屋敷である。
伊達政宗
Date Masamune
1567-1636
江戸城外堀の大工事
戦国時代から江戸初期の大名。出羽国(山形県)米沢城で生まれる。 幼少の頃に天然痘を患って隻眼となり、『独眼竜』と呼ばれたことはあまりに有名。 18歳で家督を継いでから瞬く間に勢力を伸ばし、奥州の約半分を手中に納めた。 秀吉・家康に臣従した後は常に中央から警戒され続けたが、領地を守り通し、仙台藩の基礎を確立する。 ある日、家康が、江戸城の見取り図を見せ、「そちなら何処から攻めるか?」と問いかけた。政宗は即座にお茶の水を指し示し「この高台から大砲を備え付け、江戸城に向けて放たせます」と答えた。実際お茶の水から江戸城大手門までは1700mしかなく大砲の射程距離だった。この指摘を受けたが如く、元和6年(1620)二代将軍秀忠は、江戸城東北の備えとして神田山を掘削して外堀とする大工事を命じた。なお、水道橋からお茶の水にかけての絶壁に囲まれた堀は仙台藩が工事を担当したため、『仙台掘』『伊達堀』とも称した。
徳川秀忠
Tokugawa Hidetada
1579-1632
将軍さまの「お茶」の「水」
江戸幕府二代将軍。家康の三男として三河国浜松城(静岡県)で生まれる。 関ヶ原の合戦での遅参や夫人の浅井氏に頭が上がらなかった、という逸話が目立つが、堅実で思慮深い秀忠の性格がこれからの天下泰平の世には後継者にふさわしい、と家康や老臣たちから支持されたという。家康が駿府に隠居したのちは父子による表裏一体の強力な政治体制で豊臣氏の影響が少なからず残っていた時期に徳川300年の基礎を固めた。 ある日、秀忠が鷹狩り(あるいは工事の見回り)の際、神田川の北岸にあった高林寺(現在は駒込に移転)に立ち寄り、境内の湧き水でお茶を点てて飲んだところ、ことのほかおいしかったので、将軍家の茶の湯に用いられることになった。 これが「お茶の水」の名の由来である。なお高林寺の湧き水はその後の外堀拡張工事で河川敷の内側となり、地名だけが残った。
小堀遠州
Kobori Enshu
1579-1649
江戸初期の大名茶人
近江浅井氏の家臣の家に生まれ、浅井氏の滅亡後、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えた。 秀長、秀吉の死去後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦の功績で備中松山1万5千石の大名に取り立てられる。1608年、30歳のとき、駿府城の普請奉行(工事責任者)となり、従五位下遠江守に叙される。「遠州」の名はこれに因んだもの。 その後、伏見奉行を25年間も勤めた。 古田織部に茶を学び、和歌をたしなみ、築城や造園にも秀でていた。茶道遠州流の始祖としても知られ、1624年からは将軍家の茶道師範となっている。 現在の三井住友海上付近に上屋敷があった。
狩野洞雲
Kano Touun
1625-1694
駿河台狩野派の初代
江戸初期の絵師。彫金家・後藤益乗光次の次男。 狩野探幽に学び、弟子の中では抜群の才能を見せ、その養子となったが、のちに探幽に実子が生まれたため、別家を立てた。三代将軍家光の寵遇を受けて法眼に叙され、狩野三家(中橋狩野、鍛冶橋狩野、木挽町狩野)に次ぐ家格だった。 京都御所の障壁画や妙心寺大方丈襖絵などを手がけている。
松尾芭蕉
Matsuo Basho
1644-1694
旗本中坊家の蔵に間借りしていた
江戸初期の俳人。伊賀国上野(三重県)出身。 伊賀の大名・藤堂家に仕えた後、江戸へ出て、連歌師・俳人として有名だった西山宗因の談林俳諧に学び、『桃(とう)青(せい)』を名乗る。当時まだ無名だった芭蕉は4千石の大身旗本である中坊家の家臣と親戚だった縁で、屋敷内の蔵に身を寄せていた。のちにその蔵は『芭蕉蔵』と呼ばれた。その後、関口に移り、神田上水の工事に携わったと言われている。さらにその後、深川に庵を結び、芭蕉庵と名づけた。 以後、全国を旅しながら優れた紀行文を記し、『蕉風』と呼ばれる独自の俳諧を作り上げた。旅先の大阪で病死し、門人たちの手で滋賀県大津市の義仲寺に埋葬された。 ≪伝・芭蕉作≫ 皀(さい)角(かち)坂 皀(さい)角(かち)の実はそのままの落葉哉(かな) (皀(さい)角(かち)坂は東京デザイナー学院付近にある坂)
徳川綱吉
Tokugawa Tsunayoshi
1646-1709
湯島聖堂を創建した
江戸幕府五代将軍。三代将軍家光の四男。上野国館林の藩主だったが、兄の死に伴ない、将軍となる。武家諸法度を改定、末期養子の禁の緩和など、時代に即した幕府の体制を整えた。また朱子学を官学とし、儒学者・林羅山が上野忍岡に開いた私塾と孔子を祀った聖堂を湯島に移して幕臣の学問所とした。自らも非常に学問に熱心だった。絢爛豪華な元禄文化が花開いたのもこの頃である。その一方、政変のあと、側近たちに政治を委ねたため、風紀はゆるんだ。 その治政下に発令された『生類憐みの令』は庶民たちの反感を買って、『犬公方』などと俗称されたが、『生類憐みの令』は実は数百の法令の総称で、犬の保護に関する法令はその一つに過ぎないことはあまり知られていない。儒教を尊び、人々に「仁心」を説こうとした綱吉の思いがこもった法令として再評価が進んでいる。
前田玄長
Maeda Harunaga
1687-1752
吉良上野介義央の後任として
江戸中期の旗本。高家(こうけ)(幕府の儀式・典礼を司る役職)。 公家・右大臣三条西実(さね)条(えだ)(春日局の縁戚)の孫、押(おし)小路(こうじ)大納言公音(きんね)の次男。 元禄15年(1702)17歳で京都より召し出され、五代将軍綱吉より旗本に列せられ、三条西実(さね)条(えだ)の正室が前田(まえだ)玄以(げんい)(豊臣五奉行の一人)の娘であることに因み、武家名字である「前田」を名乗る。宝永6年(1709)、高家に任じられ、現在の順天堂大学図書館付近に800余坪の居屋敷を与えられた。五代綱吉から九代家重まで歴代5人の将軍に仕え、1731年からは高家肝煎役(きもいりやく)(まとめ役)を21年間勤め、京都御使、伊勢神宮、日光東照宮などへの将軍家御名代などを勤めた。 以後、高家前田家は明治20年(1887)まで、178年間、同地に屋敷を構えた。
室鳩巣
Muro Kyuso
1658-1734
八代将軍吉宗のブレーン
江戸中期の儒学者。医者の子として谷中に生まれる。 加賀前田家に仕えたのち、幕命で京都へ赴き、五代将軍綱吉の侍講(将軍に学問を教える公職)であった木下順庵(1621―1698)に学ぶ。同じ門人で六代将軍家宣の側近だった新井白石(1657―1725)の推挙で幕府の儒学者となる。湯島聖堂で朱子学の講義も行った。家宣、家継、吉宗の三代に渡って仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられた。とくに八代将軍吉宗の代にはブレーンとして、享保の改革を補佐する。 晩年は「駿台」と号し、『駿台雑話』という著書を残した。 赤穂浪士事件のとき、『義人録』を著して、浪士たちを顕彰している。 また『鳩居堂』の命名者としても知られている。
大田南畝
Ota Nanpo
1749-1823
狂歌ブームの火付け役
江戸後期の狂歌師・戯作者。号は四方(よも)赤(あか)良(ら)、蜀(しょく)山人(さんじん)など。 下級役人の子として牛込に生まれる。天明狂歌の盟主、戯作(娯楽小説)文壇の 大御所として江戸文化をリードするが、寛政の改革によって筆を折り、能吏に転じた。46歳の時、昌平校で林(はやし)大学頭(だいがくのかみ)の試験を受け、御目見得(おめみえ)以下(将軍に拝謁できない幕臣)の中では首席で合格。ちなみにこの時、御目見得以上での首席合格者は遠山金四郎景普(遠山の金さん)だった。湯島聖堂の対岸にあった自邸を『惟(い)林(りん)楼(ろう)』と称し、ここで没した。 ≪辞世の句≫ 今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん 『狂歌』とは短歌の形式を借りて日常生活や歴史上のできごと・人物などを、皮肉をこめたり、洒落たりして面白おかしく詠んだもの ≪太田道潅の故事より≫山吹のはな紙ばかり紙入れに実のひとつだに無きぞ悲しき ≪百人一首から≫むらさめの道のわるさの下駄の歯に はらたちのぼる秋の夕暮れ
小栗忠順
Oguri Tadamasa
1827-1868
激動の幕末を駆け抜けた
幕末の幕臣。旗本・小栗家の嫡子として駿河台に生まれる。 万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准(同意)書を交換するための使節の一人に抜擢され、ポーハタン号でワシントンに赴く。(勝海舟らの咸臨丸は使節団の護衛艦に過ぎず、カルフォルにアで引き返している。)帰国後はその見聞を活かし、外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任するものの、その先鋭的な考え方が老中らに受け入れられなかったり、根っからの江戸っ子気質が災いして罷免と就任を何度も繰り返すこととなる。官軍に対して徹底抗戦を主張したために十五代将軍慶喜に御役御免を言い渡され、領地のある上州・権田(群馬県高崎市)に家族や家臣と共に移住したが、小栗の存在を警戒した新政府軍に捕らえられ、取調べなどもないまま斬首された。幕府による本格的な洋式造船施設『横須賀製鉄所』(ドックは現在も米軍基地内で使用)の建設、フランス語学校の開校、鉄道建設の構想、株式会社組織の発案など数多くの功績を残し、近年再評価が進んでいる。
小松宮彰仁親王
Prince Komatsu Akihito
1846-1903
高貴なる者には義務がある
伏見宮邦家親王の第八王子。 1858年、仁孝天皇の猶子(相続を目的としない養子)となり、仁和寺の第三十世門跡を継ぐが、その後還俗(げんぞく)する。戊辰戦争では奥羽征討総督として指揮を執り、西南戦争にも出征した。陸軍大将、近衛師団団長などを務め、日清戦争では征清大総督に任じられ、旅順に出征している。 明治34年(1901)のイギリス、エドワード7世の戴冠式には明治天皇の名代(代理)として出席した。日本赤十字の総裁なども勤めている。 現在の明治大学の一帯に広大や洋風の宮殿があり、リバティータワーのあたりは宮家の馬場だった。 弟の寛永寺十五代山主公現親王(後の北白川宮能(よし)久(ひさ)親王)がいた上野公園内に騎馬像がある。
河鍋暁斎
Kawanabe Kyosai
1831-1889
反骨の風刺画家
幕末から明治初期の風刺画家。古河藩士の子として生まれ、幕府の定火消(じょうびけし)同心(どうしん)となる(ニコライ堂の場所に当時定火消屋敷があった)。 1837年、浮世絵師・歌川国芳に入門し、のち駿河台狩野派に入門。この頃、大雨で神田川に流れついた生首を写生して周囲を吃驚させたと言われる。光林派画壇の重鎮・鈴木其一の娘と結婚した。 維新後、徳川家の転封と共に静岡へ移るが、新政府を批判する風刺画を発表し続け、逮捕・投獄される。その後、ウィーン万国博覧会に出品した作品が高い評価を受け、パリの東洋美術館で知られるフランス人実業家エミール・ギメの訪問を受けた。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしたことでも知られる。岡倉天心やフェノロサに東京美術学校の教授を依頼されたが果たせず、胃がんで亡くなった。
大司教ニコライ
Saint Nicholas
1836-1912
ロシア正教の布教に生涯を捧げた
ロシア西部、ベラルーシとの国境に近いスモレンスクの村の司祭の子として生まれる。本名イオアン・デミトリヴィチ・カサートキン。 サンクトペテルブルグの神学校で学び、聖職者としてエリートコースを歩んでいたが、当時まだ開設されたばかりだった日本領事館付きの司祭を公募する文書を読み、1861年25歳で来日。日本でロシア正教を広めようという固い決意のもと、日本文化を熱心に学び、幕末から明治にかけ各地をまわって積極的に布教活動を行った。明治24年(1891)、駿河台の高台に大聖堂が完成。当時来日していたロシア皇太子の訪問を受けるはずだったが、大津で皇太子が日本人に襲撃される事件が起きる(大津事件)。ニコライは負傷した皇太子に、見舞いとして日本人女性信徒が描いた聖像画を贈った(現在エルミタージュ美術館蔵)。日露戦争勃発時は厳しい立場に追い込まれたが帰国せず、1912年75歳で没し、1970年、日本の聖人に列聖された。亡くなったときには3万人を超える信徒がいた。
沢辺琢磨
Sawabe Takuma
1834-1913
坂本龍馬の従兄弟
高知県出身。本名、山本数馬。 坂本龍馬の従兄弟で、武市半平太に師事。筋金入りの尊王攘夷の志士だった。 のちに北海道に渡り、函館神明社の宮司となる。当時の函館のロシア領事館は、領事のゴシケーヴィチがとても日本びいきだったため、日本人の往来もさかんで、澤邊琢磨も領事の義理の息子に剣道を教えるため出入りしていた。領事館付きの司祭として来日していたニコライが日本でロシア正教を布教をしようと考えているのを知ると、「邪教を広めようとしている」と激怒し、抜刀。ニコライは「ハリストス教(ロシア正教)をよく識らないのに邪教と決め付けるのはどうか」と逆に問いかけ、「ならば話を聞いてから考えよう」と刀を退いたという逸話が残る。1868年、澤邊は日本人初のロシア正教信徒となり『パウエル』という洗礼名を授けられて、その後のニコライの布教活動を補佐した。
北沢楽天
Kitazawa Rakuten
1876-1955
時事漫画の草分け
日本で最初の職業漫画家。埼玉県大宮市出身。 錦華小学校(現・お茶の水小学校)を卒業後、日本画と西洋画を学んだ。 楽天の才能に目を付けた福沢諭吉の紹介で、横浜の英字新聞『ボックス・オブ・キュリオス』に入社。同紙の漫画を担当していたオーストリア人、ナンキベルから欧米漫画の技術を学び、その帰国後は後任者となった。1889年、時事新報に入社し、漫画記者となる。1905年、初のカラー漫画『東京パンク』を発行。政府や警察などの国家権力への風刺を扱い、英語・中国語も併記してアジア各国でも販売されたが、1910年の大逆事件を機に社会主義批判の風刺漫画に転じる。その後、新人漫画家の育成にも力を入れた。戦時中、宮城県大崎市に疎開するまで、現在の佐々木研究所のあたりに住んでいた。戦後は故郷の埼玉県に戻り、1955年に死去。
重野安繹
Shigeno Yasutsugu
1827-1910
日本初の文学博士
薩摩(鹿児島県)出身。昌平校に学び、藩主島津(しまづ)斉(なり)彬(あきら)の造土館の教授となる。この頃、同僚の使い込みにより、遠島(島流し)となり、西郷隆盛と知り合う。薩英戦争の時には戦後処理を担当した。維新に際して、西郷や大久保利通らより国事に関する相談を受け、その名を慕い、入門する者は多かった。明治政府に仕えて文部省(当時は湯島聖堂内にあった)に入り、以後要職を歴任する。『大日本編史』史巻 95冊の編纂に従事し、明治21年、文学博士となる。明治23年には貴族院議員となった。門人であった岩崎弥之介のために静嘉堂文庫の開設に尽力している。 明治40年には81歳で、オーストリア・ウィーンで開催された万国学士院連合総会に出席した。明治43年、84歳で駿河台の自邸で没した。
池田謙斎
Ikeda Kensai
1841-1918
日本初の医学博士
越後(新潟県)出身。蘭医の大家、緒方洪庵に学び、長崎で医師ポードインに師事する。江戸に戻ってからは幕府の小典医として医業に従事した。 戊辰戦争、西南戦争、日清戦争では従軍医として活躍した。陸軍軍医から東大医学部初代総理となり、明治20年に医学博士、明治31年に男爵、明治35年からは宮中顧問官子爵となっている。大正7年に、駿河台で没した。
白瀬矗
Shirase Nobu
1861-1941
明治の南極探検家
秋田県出身。寺の住職の子として生まれ、僧侶となるために上京するが、のちに軍人志望に転換した。 明治14年(1881)、千島探検隊に参加するが、それは暴風雨、壊血病、食糧不足などで多数の死者が出る過酷なものだった。明治45年(1912)には、自らが隊長となり、日本人探検隊として初めて南極大陸に上陸する。しかし、それもまた、仲間との不和や資金不足、食料不足に悩まされた極めて過酷なものだった。さらに帰国後は後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことが発覚。白瀬は隊員に支払う給料すらなく、莫大な借金を背負うことになる。戦前まで駿河台に住んでいたが、借金返済のため家財を売り払い、当時は極めて珍しかった南極大陸上陸の実写フィルムを抱えて日本各地や満州、台湾、朝鮮半島を20年かけて講演してまわった。 南極観測艦『しらせ』は彼の名に因んだもの。
平田東助
Hirata Tosuke
1849-1925
「神社合祀」を推進した
明治の政治家。山形県米沢市出身。 米沢藩の藩医の子として生まれるが、8歳のとき平田家の養子となり、藩学興譲館に学ぶ。藩命を受けて上京し大学東校(東大医学部の前身)に入学する。明治4年、23歳のとき、岩倉使節団に随行してヨーロッパに赴き、ドイツの大学で国際法や商法を学び、この分野においては日本人初の博士号を取得。この時、先にドイツに留学していた長州出身の青木周蔵らの知遇を得たことが、以後、新政府と対立した米沢藩出身でありながら、長州出身派の官僚として、活躍することになる。帰国後は主に内務省(地方行政・警察・土木などを所轄)において要職を歴任し、山縣内閣の側近として活躍した。明治34年、桂内閣の農商大臣となり男爵を授与される。この頃、産業組合を創設して駿河台の邸内にその事務局を設けた。明治41年、第二次桂内閣の内務大臣となった時、『神社合祀』(ひとつの町村に一社とし、由緒ある神社だけを保護する)を強引に推し進め、地方の文化や習俗、祭礼に甚大な影響を与えた。大正11年に療養先の逗子で没。享年77歳。
西園寺公望
Saionji Kinmochi
1849-1940
最後の元老
明治の政治家。第12、14代内閣総理大臣。公家の名門・西園寺家の当主。 幼少の頃は明治天皇の遊び相手を務めた。幕末・維新の頃はまだ十代の青年でありながら名門ゆえに要職に就く。まだ尊皇攘夷の気運が残る御所に公卿の中で初めて洋装・散髪して参内して、公卿たちの反発を買い、辞職。その後、フランスに留学し、自由思想に触れ、のちにフランスの首相となるクレマンソーらと知り合う。その一方で放蕩もずいぶんし、数々のエピソードを残している。帰国後は自由民権運動に傾倒し、パリで知り合った中江兆民らと共に活動するが、明治天皇に内々に諌められあっさり身を引く。明治15年、伊藤博文の憲法調査のための欧米視察に随行したのち、明治27年に第二次伊藤内閣の文部大臣となった。明治33年には立憲政友会の立ち上げに参加。明治39年と44年に内閣総理大臣となった。駿河台の屋敷の近隣の旅館は、地方から西園寺に請願に来る人たち(いわゆる『西園寺詣で』)の常宿だった。
岩崎弥之助
Iwasaki Yanosuke
1851-1908
三菱財閥の二代目
明治の実業家。高知県出身。 三菱財閥の創始者である弥太郎の弟で兄の死後、2代目となる。 妻が明治の元勲・後藤象二郎の娘であったことから、維新後、後藤象二郎が所有していた駿河台の土地を譲り受け、自邸と三菱社(三菱本社)を創設した。1890年、丸の内・神田の土地10万坪を買収し、現在のオフィス街のもとを計画する。第4代日本銀行総裁を務め、男爵に叙任された。 漢学を重野安繹に学び、文化・芸術への造詣が深く、そのコレクションはのちに静嘉堂文庫のもととなった。 岩崎男爵邸と呼ばれた洋館は、今は淡路坂の途中の旧日立製作所と東お茶の水ビルの間の赤レンガの壁のみ痕跡が残る。 弥之助の子息で三菱財閥の4代目を継いだ小弥太(1879-1945)もこの屋敷に暮らし、関東大震災まで住んでいた。
加藤高明
Kato Takaaki
1860-1926
三菱の大番頭といわれた
明治・大正の政治家。第24代内閣総理大臣。 尾張(愛知県)の下級藩士の子として生まれる。名古屋洋学校を経て、東大法学部を首席で卒業。三菱社に入社し、イギリスに渡った。帰国後、本社副支配人となり、岩崎弥太郎の娘と結婚。このことからのちに政敵から「三菱の大番頭」と揶揄された。その後、政治家に転職し、外務大臣だった大隈重信のもとで、秘書官や駐英大使などを歴任し、明治33年、第4次伊藤内閣の外務大臣となり、日英同盟に尽力する。第二次大隈内閣の時には外相として、第一次世界大戦への参加を強く訴えた。その後、憲友会を結成し、総裁(党首)となり、大正13年、東大出身者初の内閣総理大臣となる。普通選挙法、治安維持法、日ソ基本条約などを成立させた。 大正15年、肺炎をこじらせて、国会内で倒れ死去。享年66歳。 駿河台の邸には立派な庭があり、名石が多かったという。
薩摩治郎八
Satsuma Jirohachi
1901-1976
バロン・サツマと呼ばれた男
大正・昭和初期の実業家。木綿の輸出で成功し「日本橋の木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫。18歳でイギリス・オックスフォード大学に留学したのち、フランスに渡る。実家からの豊富な資金をもとに華やかな社交を繰り広げ、パリの社交界で「バロン・サツマ」(バロンとは男爵の意)とあだ名された。画家マリー・ローランサンや詩人のジャン・コクトーらと親交を結ぶ一方、当時パリに留学していた藤田嗣治などの日本人芸術家の支援や文化活動の後援に惜しみない私財を投じた。日仏交流のキーパーソンとして活躍し、1927年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与される。第二次世界大戦中もパリに滞在し、1951年に帰国したが、その頃には全財産を使い果たしていた。しかし、その後も日仏の文化交流に貢献する。駿河台にあった薩摩邸は1925年に治郎八が一時帰国した際に建てられたもので、天井にフレスコ画が描かれ、シャンデリアが下がる舞踏室をそなえた華麗な大邸宅だったという。
西村伊作
Nishimura Isaku
1884-1963
文化学院の創設者
和歌山県新宮市出身。幼い時に濃尾大地震で両親を亡くし、森林王だった母方の実家を継ぐ。広島の明道中学校で学ぶ。日露戦争に反対して社会主義思想を持ち、幸徳秋水や堺利彦ら平凡社による社会主義者と交流するようになる。 1912年、長女が小学校を卒業したのを機に、教育のあり方を考え、与謝野寛・晶子夫妻や画家・石井柏亭と共に文化学院を創設。当時の中学校令や高等女学校令に縛られず、一流人たちによる芸術・文化・学問の教育を行う自由で快活な学校を目指した。豪華講師陣たちの中には、有島武郎、菊池寛、山田耕作、芥川龍之介、川端康成らの名が見える。しかし軍国主義の時代の中で1943年、伊作は不敬罪で捕縛され、文化学院には閉鎖命令が下り、校舎は一時捕虜収容所として接収された。戦後は文化学院を再興し、各界で活躍する多くの卒業生を送り出した。
服部広太郎
Hattori Hirotaro
1875-1965
御茶美の創設者
植物学者。尾張藩士の子として、市ヶ谷の藩邸で生まれる。 維新後、駿河台の古い旗本屋敷を譲り受けて移り住み、錦華小学校(現・お茶の水小)を卒業した。当時淡路公園の場所のあった開成中学を経て、一高(現・日比谷高校)、そして東京帝国大学理学部に入学した。大正5年、皇太子だった昭和天皇の「御学問初め」に際し御用掛に任じられる。大正13年に赤坂離宮内に「生物学研究所」が設けられるとその御用掛にも任じられ、植物の研究に熱心だった昭和天皇の研究に協力した。昭和4年に昭和天皇が和歌山を訪れた際には、植物学者・南方熊楠に引き合わせてもいる。昭和30年、大学受験を目的とした予備校「服部学園」を邸内に開校し、とくに美術方面に力を注いだので、「御茶美」の名で有名になった。
二代目市川左團次
Ichikawa Sadanji II
1880-1940
ニコライ堂の鐘の音を愛した
歌舞伎役者。初代左團次の長男。 常に演劇革新の先頭に立って活動したことで知られる。 『毛抜』『鳴神』など歌舞伎十八番の復活上演に力を注ぎ、のちに新歌舞伎と呼ばれる『修善寺物語』『元禄忠臣蔵』など新しい歌舞伎も積極的に上演した。 小山内薫と提携して「自由劇場」という新劇の活動もさかんに行った。 また昭和3年には史上初の歌舞伎海外公演をソヴィエトで成功させている。 ニコライ堂の鐘の音を慕って駿河台に移り住み、ここで亡くなった。 その葬儀は長らく町内の語り草になるほど盛大だったという。
佐々木東洋
Sasaki Toyo
1839-1918
杏雲堂の創設者
江戸・本所四ツ目の医者の子として生まれる。 18歳の時、佐倉(千葉県)の順天堂に入門、その後、長崎で修行した。江戸に戻って父の医院を手伝った後、本所亀沢町(両国)で開業。駿河台には明治9年にまず住居を移し、明治14年に病院を建設した。『打聴診の名人打ち東洋』の異名で知られ、遠方からわざわざやってくる患者も多かった。官庁のご機嫌取りを好まず、西南戦争の時、報酬が少ない従軍医の不足を耳にし、率先して手をあげたが、一等軍医の位を授けられようとすると、官位はいらない、と突っぱねたという。洋服が大嫌いだったが、厳めしい軍服でないと負傷兵がいうことを聞かなかったため、このときばかりは我慢した。(杏雲堂病院前の銅像も和服姿である) 息子のドイツ留学も官費でなく私費で行かせた。大正7年に80歳で死去。 ≪80歳の祝いによせて≫ 紫の雲の迎えはよかれども おそく頼むよ無阿弥陀仏
井上達也
Inoue Tatsuya
1848-1895
井上眼科病院の創設者
阿波(徳島)の大名、蜂須賀家の侍医の家に生まれる。 蘭医学を修め、とくに眼科で才能を発揮し、日本における西洋眼科医の始祖と言われた。当初は三崎町で開業していたが火災に遭い、当時人家まれな林の高台だった駿河台の旗本屋敷跡に移ってきた。明治22年に当時としては珍しい煉瓦作りの洋風の建物に改築し最新鋭の機器を揃え一大偉業を成し遂げた。 当時、患者として通っていた夏目漱石が、井上眼科の看護婦に失恋して松山へ行った、という逸話がある。なおサンクレール商店街の人工滝の前に立つケヤキの大木は、達也が孫・正澄氏(8代目院長)の中学入学の記念に植樹したもの。(当時はこの場所に自宅と病院があった) 明治28年に亡くなり、跡を養子の達七郎氏が継いだ。
浜田玄達
Hamada Gentatsu
1855-1915
産婦人科の権威
熊本の藩医の家に生まれる。 幼い頃に父を亡くし、医師のもとで下働きをした後、藩の医学校に入学し、オランダ人マンスヘルドに就いて勉強する。18歳の時、玄達の非凡な才能に感心した松本善平という人が学資を出してくれることになり、長年の夢だった大学東校(東大医学部の前身)に入学。優秀な成績で卒業し、熊本の医学校の教頭となった。明治17年、ドイツに留学して産婦人科を専修し、各地の病院を視察してから明治21年に帰国した。帰国後は日本の産婦人科の幼稚さと施設の不完全に憤り、これをドイツ流に改めようと政府に働きかけた。これによって大学病院に産婆養成所が設置され、日本の産婦人科は大きく変わった。大正4年に62歳で死去。 同じ熊本出身の小畑惟清氏が跡を継いだ。
瀬川昌耆
Segawa Masatoshi
1856-1920
江戸で医者の子として生まれる。明治15年、東京医科大学を卒業し、仙台医学専門学校の教授となり、小児科を専攻した。のちドイツへ留学。帰国後は千葉医学専門学校の教授となって研究指導にあたり、今日の千葉医大の基礎を築いた。東大の小児科開設に協力したのち本所に小児科専門の江東病院を建て、さらに民間としては日本発の小児科専門医院・東京小児院を駿河台に創設し「小児科の瀬川か、瀬川の小児科か」といわれるほどの小児科学界の大御所となった。また、極めて趣味豊かな人物で、詩、俳句、謡曲などを嗜み、とくに茶湯釜を蒐集研究して天下の名品・珍品300余を蔵に有し、自ら「釜癖道人」と称して茶釜に関する感想・随筆を発表し、その世界の権威とされるほどだった。 大正9年に65歳で死去。子息の昌世氏が跡を継いだ。