元和6年/1615年
伊達政宗は二代将軍徳川秀忠(お江代の夫)に命ぜられ、神田山を開削。
平川とつけ替え、神田川とし外濠とする。この土を盛って下町(現在の小川町、大手町、日本橋等)を造成する。大江戸の始まり。
慶安元年/1647年
三代将軍徳川家光の頃、明の遺臣、朱舜水が清に追われて日本に亡命、故郷の景色を懐かしみ、お茶の水渓谷を小赤壁、茗溪と名附ける。
明治元年/1868年
明治維新、徳川幕府崩壊に伴い、官有地へ、そして徐々に民有地へ、明治大学、中央大学、日本大学等の大学、また、井上眼科病院、東京小児院(後の瀬川小児科病院)、三楽病院、浜田病院、そしてニコライ堂、YWCA等も設立され、住宅地、商店も出来てくる。
明治24年/1891年
ニコライ堂竣工、東京の新名所となる。
明治38年/1905年
「お茶の水駅は濠の中」現在の中央線は甲武鉄道を前身として開業、明治42年に国有化された。甲武鉄道は万世橋駅(旧交通博物館)からお茶の水駅を通り甲府まで開通、尚、お茶の水駅は現在のお茶の水橋の西側で水道橋駅よりにあった。
昭和5年/1930年
聖橋完成
昭和6年/1931年
聖橋の完成に合わせてお茶の水駅は現在地に移転。このとき茗溪通りもできた。
*対岸湯島台には五代将軍徳川綱吉以来の昌平学問所(湯島聖堂)東京高等師範学校(現:筑波大学)東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)があった。戦後は両師範学校跡に東京医科歯科大学が立っている。隣は佐倉の順天堂大学病院。
昭和23年/1948年
商栄会 紅梅通り支部(瀬川病院裏通りを含む)であったが、茗溪通り会として分離独立し行事は共同で行う。地域はお茶の水駅東口(聖橋口)から西口(お茶の水橋口)迄の南北両側とする。
初代会長 粟野 駒雄
昭和48年/1973年
この地域で一番大きく高い建物として、「瀬川ビル」9階建竣工
昭和43年〜45年
60年安保から高まっていた学園紛争は4 3年後半から激しさを増し、東大紛争・日大紛争と拡大、当商店街は毎日のように学生デモ、それを鎮圧しようとする機動隊に囲まれ、投石、催涙ガスにつつまれた、当時は駿河台一帯がカルチェラタンとも呼ばれた。
昭和44年/1969年
地下鉄千代田線開通。
千代田線 新お茶の水駅開業。
マクドナルドお茶の水店 日本での2号店が開店。
昭和35年/1960年
6 0年安保
昭和29年/1954年
地下鉄丸の内線開通。
丸の内線 お茶の水駅開業。
昭和58年/1983年
JR聖橋口駅前に「新お茶の水ビル」22階建竣工 サンクレール商店街設立
昭和62年/1987年
二代会長 福田 世英
平成2年/1990年
三代会長 瀬川 昌輝
平成6年/1994年
茗溪通り整備事業として歩道カラー舗装、街路樹、街路灯の設置。
平成8年/1996年
ゴミの共同収集事業を行い、ゴミのない清潔な歩道空間を確保。
平成12年/2000年
歩行者の通行の邪魔にならない「茗溪通り歩道利用ルール」を制定。
平成15年/2003年
店舗、会社、地域情報を掲載し、「お茶の水マップ」を発行、その後、毎年1 回発行。
平成16年/2004年
犯罪防止を目的として、防犯カメラの設置。千代田区の商店街では2番目の設置。
地域活性化対策として、「お茶の水アートピクニック」を開催。初回は「お茶の水スケッチ大会」としてスタート、その後、毎年10月に開催。
平成18年/2006年
文教地区そして歴史あるこの街の環境を守るため、「茗溪通り憲章」を制定。