瀬川昌耆

江戸で医者の子として生まれる。明治15年、東京医科大学を卒業し、仙台医学専門学校の教授となり、小児科を専攻した。のちドイツへ留学。帰国後は千葉医学専門学校の教授となって研究指導にあたり、今日の千葉医大の基礎を築いた。東大の小児科開設に協力したのち本所に小児科専門の江東病院を建て、さらに民間としては日本発の小児科専門医院・東京小児院を駿河台に創設し「小児科の瀬川か、瀬川の小児科か」といわれるほどの小児科学界の大御所となった。また、極めて趣味豊かな人物で、詩、俳句、謡曲などを嗜み、とくに茶湯釜を蒐集研究して天下の名品・珍品300余を蔵に有し、自ら「釜癖道人」と称して茶釜に関する感想・随筆を発表し、その世界の権威とされるほどだった。
大正9年に65歳で死去。子息の昌世氏が跡を継いだ。