浜田玄達

熊本の藩医の家に生まれる。
幼い頃に父を亡くし、医師のもとで下働きをした後、藩の医学校に入学し、オランダ人マンスヘルドに就いて勉強する。18歳の時、玄達の非凡な才能に感心した松本善平という人が学資を出してくれることになり、長年の夢だった大学東校(東大医学部の前身)に入学。優秀な成績で卒業し、熊本の医学校の教頭となった。明治17年、ドイツに留学して産婦人科を専修し、各地の病院を視察してから明治21年に帰国した。帰国後は日本の産婦人科の幼稚さと施設の不完全に憤り、これをドイツ流に改めようと政府に働きかけた。これによって大学病院に産婆養成所が設置され、日本の産婦人科は大きく変わった。大正4年に62歳で死去。
同じ熊本出身の小畑惟清氏が跡を継いだ。