小堀遠州

近江浅井氏の家臣の家に生まれ、浅井氏の滅亡後、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えた。
秀長、秀吉の死去後は徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦の功績で備中松山1万5千石の大名に取り立てられる。1608年、30歳のとき、駿府城の普請奉行(工事責任者)となり、従五位下遠江守に叙される。「遠州」の名はこれに因んだもの。
その後、伏見奉行を25年間も勤めた。
古田織部に茶を学び、和歌をたしなみ、築城や造園にも秀でていた。茶道遠州流の始祖としても知られ、1624年からは将軍家の茶道師範となっている。
現在の三井住友海上付近に上屋敷があった。