平田東助

明治の政治家。山形県米沢市出身。
米沢藩の藩医の子として生まれるが、8歳のとき平田家の養子となり、藩学興譲館に学ぶ。藩命を受けて上京し大学東校(東大医学部の前身)に入学する。明治4年、23歳のとき、岩倉使節団に随行してヨーロッパに赴き、ドイツの大学で国際法や商法を学び、この分野においては日本人初の博士号を取得。この時、先にドイツに留学していた長州出身の青木周蔵らの知遇を得たことが、以後、新政府と対立した米沢藩出身でありながら、長州出身派の官僚として、活躍することになる。帰国後は主に内務省(地方行政・警察・土木などを所轄)において要職を歴任し、山縣内閣の側近として活躍した。明治34年、桂内閣の農商大臣となり男爵を授与される。この頃、産業組合を創設して駿河台の邸内にその事務局を設けた。明治41年、第二次桂内閣の内務大臣となった時、『神社合祀』(ひとつの町村に一社とし、由緒ある神社だけを保護する)を強引に推し進め、地方の文化や習俗、祭礼に甚大な影響を与えた。大正11年に療養先の逗子で没。享年77歳。