河鍋暁斎

幕末から明治初期の風刺画家。古河藩士の子として生まれ、幕府の定火消(じょうびけし)同心(どうしん)となる(ニコライ堂の場所に当時定火消屋敷があった)。
1837年、浮世絵師・歌川国芳に入門し、のち駿河台狩野派に入門。この頃、大雨で神田川に流れついた生首を写生して周囲を吃驚させたと言われる。光林派画壇の重鎮・鈴木其一の娘と結婚した。
維新後、徳川家の転封と共に静岡へ移るが、新政府を批判する風刺画を発表し続け、逮捕・投獄される。その後、ウィーン万国博覧会に出品した作品が高い評価を受け、パリの東洋美術館で知られるフランス人実業家エミール・ギメの訪問を受けた。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルが弟子入りしたことでも知られる。岡倉天心やフェノロサに東京美術学校の教授を依頼されたが果たせず、胃がんで亡くなった。