小栗忠順

幕末の幕臣。旗本・小栗家の嫡子として駿河台に生まれる。
万延元年(1860)、日米修好通商条約の批准(同意)書を交換するための使節の一人に抜擢され、ポーハタン号でワシントンに赴く。(勝海舟らの咸臨丸は使節団の護衛艦に過ぎず、カルフォルにアで引き返している。)帰国後はその見聞を活かし、外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任するものの、その先鋭的な考え方が老中らに受け入れられなかったり、根っからの江戸っ子気質が災いして罷免と就任を何度も繰り返すこととなる。官軍に対して徹底抗戦を主張したために十五代将軍慶喜に御役御免を言い渡され、領地のある上州・権田(群馬県高崎市)に家族や家臣と共に移住したが、小栗の存在を警戒した新政府軍に捕らえられ、取調べなどもないまま斬首された。幕府による本格的な洋式造船施設『横須賀製鉄所』(ドックは現在も米軍基地内で使用)の建設、フランス語学校の開校、鉄道建設の構想、株式会社組織の発案など数多くの功績を残し、近年再評価が進んでいる。