佐々木東洋

江戸・本所四ツ目の医者の子として生まれる。
18歳の時、佐倉(千葉県)の順天堂に入門、その後、長崎で修行した。江戸に戻って父の医院を手伝った後、本所亀沢町(両国)で開業。駿河台には明治9年にまず住居を移し、明治14年に病院を建設した。『打聴診の名人打ち東洋』の異名で知られ、遠方からわざわざやってくる患者も多かった。官庁のご機嫌取りを好まず、西南戦争の時、報酬が少ない従軍医の不足を耳にし、率先して手をあげたが、一等軍医の位を授けられようとすると、官位はいらない、と突っぱねたという。洋服が大嫌いだったが、厳めしい軍服でないと負傷兵がいうことを聞かなかったため、このときばかりは我慢した。(杏雲堂病院前の銅像も和服姿である)
息子のドイツ留学も官費でなく私費で行かせた。大正7年に80歳で死去。
≪80歳の祝いによせて≫ 紫の雲の迎えはよかれども おそく頼むよ無阿弥陀仏